関山 中尊寺[岩手県平泉 天台宗東北大本山]

貫首ご挨拶

貫首ご挨拶

天台宗東北大本山 中尊寺
貫首 奥山 元照

 この度はからずも中尊寺一山の推挙により前貫首山田俊和大僧正より法統を継承致し、天台座主猊下より中尊寺中興第二十九世貫首職を拝命致しました。

 中尊寺開山慈覚大師、大壇越藤原清衡公の中尊寺開創への願いはそのまま宗祖大師の御志に他ならないものと受けとめ、世情定まりない現代に「浄仏国土」を建設すべく努めてまいる所存です。

合掌

貫首法話

「中尊寺ハス」に思う
2023年7月

妙蓮華

 今年も蓮の花の咲く季節になりました。
 鉢で栽培している場合は、毎年3月頃に植え替えをするとよく咲いてくれるようです。植え替え方、生育方法は人それぞれ違いがあると思いますが一例を申し上げます。
 まず鉢の中の土と蓮根をブルーシートなどに広げ、その中から枯れた古い部分を取り除き、新芽をつけた蓮根を丁寧に取り出します。
 次に、鉢の中に昨年の土と共に新しい粘度のある土(田んぼの土など)を骨粉などの肥料と一緒に入れて、新芽を折らないように気を付けながら蓮根を植え付けます。さらに新しい土をかぶせて水を入れ、鉢をきれいに洗って完成となります。
 鉢の数が少なければそれほど時間はかかりませんが、年々蓮根が増えて鉢数が増えると当然作業に時間がかかります。しかし、美しく咲く蓮の華を想像すると、毎年泥だらけになりながらも植え替えをしてしまうのだと思います。

 当山の「中尊寺ハス」は、昭和25年の金色堂御遺体調査において、第四代泰衡公の首桶から100粒ほどの蓮の種が発見されました。当時、蓮の権威で有名であった大賀一郎博士に預けられましたが、発芽しないまま博士没後中尊寺に返還され宝物として保存されました。その後数十年を経て、中尊寺より種子の発芽を大賀博士門下の長島時子氏(恵泉女学園短期大学教授)に依頼しました。そして平成5年に発芽したのですが、花が咲くまでにはいたりませんでした。
 試行錯誤を重ね、平成10年7月14日、発芽確認から5年目につぼみを確認することができました。そしてついに7月29日に開花を確認。7月30日開花の発表が行われたということです。

 長島教授は平成21年に発刊された「平泉」の中で、「中尊寺ハスと大池ハス」と題して当時の様子を回想されていますのでその一部をご紹介します。
 『「中尊寺ハス」の実生開始から5年後の平成10年7月にやっと1個の蕾を見つけたとき、「蕾が出た!」と思わず走り出し「きっとさいてね」と話しかけずにはいられなかった。7月29日蕾の先端が朝日を受けてわずかに開いた第1日目の花が目に飛び込んできた。「咲いた!」、と花に走り寄ると、すでに花蜂が花の中で蜜を吸っていた。泰衡公がハスの精になって微笑んでいるようであった。』

 文治5年(1189年)に源頼朝が奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした際、藤原泰衡公の御首級が中尊寺金色堂に納められました。泰衡公が討たれた秋田県比内(大館市)地方では、古来より大切な方の柩には七種の種を入れて葬るのが習わしとされ、今でも守られていると伺いました。首桶に納められた蓮の種子は、泰衡公の御霊を慰める為に納められた、慰霊の真心が込められた蓮の種であったのだと思います。

 800年の時を経て開花した「中尊寺ハス」。平安の香りを伝えるこのピンクの古代蓮は、奥州藤原氏の願った平和な浄仏国土建設への誓いを、今年もまた私達に伝えてくれているのだと思います。

夢 ―私たちには夢がある―
2023年4月

縁 生かされていること

 3月は卒業と別れの月であり、そして4月は入学・入社などの新たなスタートと出会いの月になります。年々桜の開花時期は早くなり、首都圏など日本各地では桜散る中で卒業式が行われていました。
 さて、新学年、新天地で新たなスタートを切るには、やはりその原動力となるいわゆるモチベーションが必要になってくると思います。そして、その先には多かれ少なかれそれぞれの方の将来への「夢」がないとそのモチベーションを保つことは難しいのではないでしょうか。

 「夢」という文字を辞書で調べますと、1.睡眠中に持つ幻覚。普通目覚めた後に意識される。2.はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。3.空想的な願望。心の迷い。迷夢。4.将来実現したい願い。理想。と説明されていてなんとなく暗い印象を受ける様な気がします。
 「夢」の文字の成り立ちは、草かんむりの伸びた草の陰に目が暗い夕方にあって、薄暗い夕暮れに視界の悪い草むらからものを見ても、よく見えない様子を意味することに起源があるようです。確かに将来の夢も、夜に見る夢もあまりはっきりしないものなのかもしれません。

 しかし私の記憶に残っている断固たる決意の上にある「夢」もあります。それは、1963年8月28日、アメリカ合衆国ワシントンDCに25万人近い人々が集結した際、職と自由を求めた「ワシントン大行進」のキング牧師の行った「私には夢がある(I Have a Dream)」の演説です。現在でもアメリカで黒人差別のニュースが報道されると必ずテレビなどで放映される映像と音声が、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士のあの力強い「I Have a Dream」の演説です。
 「すべての人間は平等にあるのだ」という理念を中心に、すべての社会階層の人々が、公民権と、皮膚の色や出身などに関係なくすべての人々に自由と民主主義を求めるキング牧師のメッセージは、米国公民権運動を代表する言葉となりました。しかし、その後も人種差別主義者による反撃は続き、1968年4月、キング牧師は白人の人種差別主義者により殺害されてしまいました。法的な平等が確保された現在でもなお、残念ながらアメリカでは人種差別が完全には無くなっていないと感じるような事件が起きています。
 今もなお語り語り継がれる「I Have a Dream」という偉大な指導者のメッセージは、今日でもなお「We Have Dream」となって生き続けているのだと思います。

 侍ジャパンの勝利や大谷選手の二刀流は、決してあきらめない「夢」への選手たちの今日の努力が、明日につながった証であったのではないでしょうか。
 そして九百年にわたって伝えられてきた金色堂のあの輝きの源には、奥州藤原氏の平和への「夢」が込められているということをあらためて確信したのでした。

写経の功徳 ―常楽我浄の心―
2022年12月

縁 生かされていること

 錦秋の11月10日、この一年間に、全国より当山にお納めいただいた写経を奉納する、「如法経十種供養式(にょほうきょうじっしゅくようしき)」が、約80名の方々の御出席のもと中尊寺光勝院にて厳修されました。

 さて、日本での写経は、仏教が我が国に伝えられた後、先ず大陸から渡ってきた僧侶らによって行われたと思われます。初めて記録に残っているものでは、「日本書紀」に、天武天皇二年(673)川原寺での一切経書写について、「是の月に書生を聚(あつめ)て、始めて一切経を川原寺に写したもう」と記されています。
 その後、奈良に都が移され、国家事業として官立の写経所が設けられ、写経生が養成されて写経は益々盛んになりました。まさに写経の黄金時代といえると思いますが、当時行われていた写経は、仏教を広め学ぶためのテキストとしての需要を満たすものでしたので、実際の書写は写経所の写経生によるものでした。

 一方、今日行われている写経は、自らの修養のため、あるいは願いをかけて書写するものであって、自ら進んで行う個人的な写経です。その個人的な写経は、いつ頃はじめられたかと申しますと、奈良の写経所が閉じられて、新しい平安の都がうちたてられた時であり、それは比叡山において、慈覚大師により創められた如法経が始まりかと思われます。
 大師の伝記によりますと、慈覚大師が私かに誓うところがあり、四種三昧(ししゅざんまい)という天台の禅定法(ぜんじょうほう)を行じ、かたわら法華経八巻を書写して小塔に入れ、比叡山横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の地に一院を建てて、これを如法堂と呼んだといわれています。そして法華経の法師品(ほっしほん)に十種供養のことが説かれていますので、この教えと結び付けて、法の如く行うところから、如法経というようになりました。その後、この根本如法経は、慈覚大師の遺徳が高くなるにつれて多く道俗の信仰を集めて、如法経信仰の中心となったのです。

 この如法経の書写を受け継いだ初代奥州藤原清衡公は、「紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)」五千三百巻余りを書写して、陸奥に浄仏国土を願いました。また、2代基衡公は清衡公菩提の為、一日で法華経一部を書写し、生涯で千部を納経する「法華経千部一日経」を行いました。そして3代秀衡公は国の平安を願い、「紺紙金字一切経」の写経供養を行ったのでした。

 この「如法経十種供養式」の十種供養とは、法華経の「法師品(ほっしほん)」に説かれる十種類の供養のことで、華(け)・香(こう)・瓔珞 (ようらく) ・抹香(まっこう)・塗香(ずこう)・焼香(しょうこう)・旛蓋(ばんがい)・衣服(えぶく)・伎楽(ぎがく)・合掌(がっしょう)の供え物を指します。供養式典の中で、伝供(でんく・法要中に参加いただいた方々に手渡しで伝えていただく)して仏前に供え、法要後に写経と共に金色堂にお納めいたします。従来は納経いただいたご参加の多くの方々にも伝供いただきますが、本年は感染予防の為に伝供作法は僧侶が代わっておこないました。

 また、天台宗では、法華経を信じ行じてその教を弘める人を「五種法師(ごしゅほっし)」といいます。『法華経』「法師品(ほっしほん)」には法華経を「①受持(じゅじ・経典の意義を信受して修行にはげむ」、「➁読(どく・読む)」、「③誦(じゅ・経典を暗誦する)」、「④解説(げせつ・理解して他人に説く)」、「⑤書写(しょしゃ・広めるために書き写す)」することを五種法師行として大切にしています。

 今日、写経の目的は、何か願い事があっておこなうものであったり、また自己の修養のために行うものもあると思いますが、そのいずれにしましても、写経を書き上げた時には、自分の心がいつの間にか、すがすがしい心持ちになっていることに気づかれるのではないでしょうか。お手本に習い、繰り返し書写するうちに、文字の形の取り方や線の太さ、横画縦画の長さやそのバランスなどがいつの間にか整ってくるのは疑う余地がありませんが、それと共に味わうことのできる清浄無垢な「常楽我浄」の仏心こそが、何ものにも代えがたい写経の功徳ではないかと思います。

縁 生かされていること
2022年10月

縁 生かされていること

 中尊寺大施餓鬼会が、8月24日中尊寺本堂にて行われました。本堂前の庭には、三界萬霊成仏の為に、長さ約8メートルの施餓鬼会供養の大塔婆が職人さん方によって据え付けられました。
 そして、丈六の御本尊釈迦牟尼如来御手に結ばれた白布の「縁(えん)の綱(つな)」が、本堂の中をゆったりと伸ばされ、この大塔婆に結ばれました。当日参列した檀信徒の方々はこの「縁の綱」に手を触れながら、ご先祖の御霊を回向するとともにご本尊様の御力をお分けいただきました。

 大施餓鬼会法要の中で、奥州藤原氏四代をはじめとする奥州藤原氏精霊、中尊寺檀信徒先祖代々並びに全国有縁の諸精霊の御名をお唱えしてご回向する、法名回向(ほうみょうえこう)と呼ばれる作法があります。
 その法名回向では、最初に「照井堰開削先覚者(てるいぜきかいさくせんかくしゃ) 大崎掃部左衛門(おおさき かもんざえもん) 安心常隠信士(あんじんじょうおんしんじ) 追善供養(ついぜんくよう)」と奉読いたします。

 照井堰(てるいぜき)とは、岩手県磐井川の厳美渓(げんびけい)上流を水源に一関市と平泉町を流れる総延長64キロメートルの3本の人工河川(疎水)の総称になります。今から凡そ900年の昔、平安時代の末、奥州藤原氏第三代藤原秀衡公の家臣・照井高春(てるい たかはる)が灌漑目的に開削し、その後多くの方々によって引き継がれ改修されて江戸時代に完成しました。
 平泉町を流れて衣川に注ぐ北照井堰は農業用水路としてのみならず、世界遺産の構成資産である毛越寺浄土式庭園の水源にもなっており、中尊寺参道月見坂入口を流れています。

 江戸時代初期、東北地方では数年にわたって大干ばつがあり、稲は枯れ人々の生活は困窮し、年貢米も納められない苦しい生活が続きました。当時、平泉の大肝入であった大崎掃部左衛門はその惨状をみかね、時の藩主に申し出て税を免じてもらいました。そして、御蔵米を借りて照井堰改修工事の人夫賃として使い、照井堰の大改修工事に取り組みました。改修工事は巖壁の掘削などで非常に困難を極めましたが、苦労の末その難工事は見事に完成しました。
 ところが、難工事だったため予想以上に費用がかかり、さらに干ばつがその後数年も続いたので凶作となり、借用した御蔵米を返済することができませんでした。そして、この状況が「お上を欺いた行い」と判断され、その功績は讃えられながらも、平泉太田川渕に於いて大崎掃部左衛門夫妻とも死罪となり、全財産であった田畑すべて召し上げられてしまったのです。

 しかしながら、その後、藩主の命により「掃部左衛門が公共のために尽くした心情を汲み」その没収財産を中尊寺に寄進し、掃部左衛門夫妻の永代供養が命じられました。
 その時以来、中尊寺大施餓鬼会の法名回向では、まず初めに大崎掃部左衛門の霊を読み上げご回向しているのです。
 平安時代の末、秀衡公の家臣の照井高春氏により開削され、その後、大崎掃部左衛門らによって大改修された照井堰は、その後も仙台藩による改修が行われ、平泉やその他の多くの人々の力によって守られ、今日も一関・平泉地方の農地で活用されています。

 中尊寺大施餓鬼会の「縁の綱」は、江戸時代の施餓鬼会が厳修された当初より大塔婆に結ばれていると伝えられています。この「縁の綱」は、御本尊のお釈迦様と三界萬霊とのご縁を結ぶことはもちろんですが、特に、秀衡公の家臣である照井高春氏の志を受けて、命と引き換えに照井堰を大改修し、人々の命の水を守りぬいた大崎掃部左衛門夫妻の有難いご縁を忘れることの無いように結ばれた、鎮魂の願いの込められた「縁の綱」であると私には思えました。
 そして、私たちが今日多くの有難い縁によって生かされていることを忘れることなく、これからも心を込めて供養していくことが、私たちのかけがえのない人生をしっかりと歩んでいくことになるのだと思いました。

平和を祈る―安分(アンブン)の心―
2022年7月

平和を祈る  ―安分(アンブン)の心―

 3年ぶりに、「春の藤原まつり」が5月1日から5日まで平泉町各所で開催されました。中尊寺では、四代公追善法要・稚児行列に始まり、白山神社能楽堂では御神事能が奉納され、郷土の芸能が地元の人々により力強くそして華やかに披露されました。3日に行われた「源義経公東下り行列」では、全国より多くの方々に平泉にお越しいただき、笑顔がとても素敵で爽やかな令和の源義経公とともに、往時をしのびながら新緑の平泉を満喫していただけたことと思います。

 また、6月29日世界遺産登録を記念して定められた「平泉世界遺産の日」には、平泉町の無量光院跡で「平和の祈り」が行われ、奥州藤原氏が願った平和と平等の理念を発信して争いのない平和な世界の実現を願いました。町内外より約300人が参列し、町内の寺院住職が法要を行い、東日本大震災犠牲者の冥福や震災からの復興、世界各地で勃発している紛争の早期終結を願いました。

 法要に続き、地元平泉小学校4年生と長島小学校5、6年生が平和への願いが歌詞に込められた「平泉讃歌」を合唱で披露し、その清らかな澄んだ歌声が会場の無量光院跡に響き渡りました。

 今回の法要のお焼香には、「平泉のかをり創造プロジェクト」様より、当日お焼香用のお香をご奉納いただき、平安時代の平泉で使われていたと推定される「香り」にのせて、世界平和への誓いを新たにさせていただきました。

 さて、奥州藤原氏は、公家中心の時代から武士の時代へと移行しつつあった平安末期、当時の最新の都の文化を取り入れながら、この平泉に卓越した政治力によって平和文化都市を建設しました。当時の都の朝廷、そして頼朝を中心とした坂東武者たちとも、お互いの立場を尊重しながら友好関係を保ち、平泉を中心とした陸奥の国に平和都市を独立実現しました。

 当時の日本という国の中で、陸奥の国の置かれた立場を自覚して、他国とのバランスを保ちながら、お互いが幸せになる道を探っていったのではないかと思います。そしてそこには、お互いの力のバランスを保つために、一定のそれ以上は望まないという、足ることを知る心、知足の心と、それぞれの分、立場に安ずる、安分の心構えがあったのではないかと思います。そのバランス感覚こそが、当時の平和な陸奥の国を実現したのではないでしょうか。

 何か問題が起こった場合には話し合いで平和的に解決しなければならないのですが、お互いの約束を破ったり、武力で少しでも多くの物を得ようとして他国に侵入したりすると、力のバランスが不安定になり、突発的なちょっとしたきっかけで武力による戦いという形へと進んでいってしまう可能性があります。

 藤原清衡公は、文化の力で国を治め平和を実現しましたが、その根底には、足ることを知り分に安ずる知足安分の覚悟があったのだと思います。そしてそこに平和な陸奥の国を実現した奥州藤原氏のリーダーとしての品格を持っていたのだと、昨今の国際紛争のニュースを目にするたびに実感しています。

 平安の昔より語り継がれ、歌い踊り継がれてきた郷土芸能の数々には、多くの戦いによって不慮の死を遂げた生きとし生けるもの全てのものへの鎮魂の心と、未来に向けて力強く歩んでいく決意が込められています。藤原四衡公より発せられたその志が、平泉の人々によって今日まで数多くの伝統行事の中に伝えられていることを、心強く誇りを感じることができました。

 そしてそこには、すべての命を尊ぶ慈悲の心と、平和を実現するための安分の心があるのではないかと思います。

無量の光につつまれて
念仏行人 阿波之介(あわのすけ) 2022年4月

無量の光につつまれて

 ある日の夕方、携帯電話に番号表示のみで発信者がわからない着信がありました。どなたからの電話かなと思いつつも電話に出ますと、懐かしい大学時代書道研究部先輩からのものでした。

 その電話の内容ですが、現在その先輩は山形市の浄土宗寺院の住職で、令和6年に浄土宗開宗850年を迎えるため、浄土宗教誨師会の記念事業のひとつとして、中尊寺金色堂前にある「阿波之介舎利塚 顕彰碑」(あわのすけ しゃりづか けんしょうひ)の拓本を採る依頼を教誨師会事務局より受け、出来れば春のお彼岸前にその作業を行う日程を相談して決めたいということでした。また、一人では拓本を採る作業が難しいので、同書道部OB後輩の青森市浄土宗住職と共に行いたいとの事でした。

 「阿波之介舎利塚 顕彰碑」は、南無阿弥陀仏の御名号の彫られた舎利塚、手水鉢とともに金色堂の東側に建立されています。金色堂を参拝するには必ずその前を通って金色堂入口から入堂するのですが、多くの方々は金色堂を目指しているので、立ち止まることなく通り過ぎる方が多いのではないかと思います。

 さて、この「阿波之介」さんは、12世紀末、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃の方で、生没年は不明とのことです。京都伏見居住の陰陽師(おんみょうじ)であったと伝えられています。陰陽道の技を悪用して当時の都の人々をたぶらかし、巨万の富を築き、欲望のままに人生を送っていたそうです。
 そんなある日、何かの用事があったのでしょうか、播磨国(兵庫県西側)に向かいましたがその途中で道に迷ってしまいました。通常ですと三日の道程のところ七日もかかってしまったそうです。その時、阿波之介さんは、「今の生きている世の中においても旅をするには道案内が必要であるのだから、まして浄土に往生するには道案内をしてくれる善知識が必要である。」と思い至ったそうです。そこで、当時京の都でお念仏の教えを広めていた法然上人の説法を聴聞し、心を打たれ深く帰依して弟子となりました。財産を全て手放して、上人に常に従って日々お念仏を唱える身となったそうです。その後、奥羽地方で布教していた金光和尚に法然上人のご臨終を知らせるために陸奥の国を訪れ、中尊寺金色堂に詣でた際に、金色堂阿弥陀如来御宝前に於いて端座合掌し、念仏百遍ほど称えてその場にて往生されたと伝えられています。そして荼毘に付した後の遺骨は金色堂前の阿波之介舎利塚にまつられたとされています。
 阿波之介さんは、奥州藤原氏清衡公により建立された平泉の中尊寺金色堂にお参りされ、お念仏を唱えながら、金色堂の「無量の光」につつまれ、阿弥陀様を善知識として、たよりにしながら、西方極楽浄土へ迷うことなく、安心して旅立たれ往生されたのだと思います。

顕彰碑 阿波之介舎利塚

渋柿の渋そのままの甘さかな
2021年12月

渋柿の渋そのままの甘さかな

 美しい紅葉の中、平泉秋の藤原祭りは、奥州藤原四衡公の追善報恩法要から始まり、中尊寺では「稚児行列」「菊祭り」、そして「仕舞・枕慈童」が白山神社能舞台で奉納され、毛越寺では「延年の舞」が荘厳に舞われました。
 また、地元で親しまれてきた郷土芸能、「行山流舞川鹿子躍」「栗原神楽」「川西念仏剣舞」「朴ノ木沢念仏剣舞」「達谷窟毘沙門神楽」などが両山でそれぞれ奉納披露されました。
 さらに、中尊寺境内では、夕刻より参道照明「紅葉銀河」と題して、多くの方々にゆく秋のすばらしさを満喫していただけたのではないかと思います。
 一連の行事は、平安の時代より、人々の秋の実りに対しての感謝と、また安心して暮らすことができる浄仏国土を目指された奥州藤原四衡公、神仏への感謝の心が込められたものであると感じることができました。

 11月3日、中尊寺本堂前で「川西念仏剣舞」、金色堂前で「朴ノ木沢念仏剣舞」を拝見しました。地元ではそれぞれの「剣舞」は「けんばい」と言われています。どちらの念仏剣舞も、東北地方の陸中一帯に伝承されている念仏供養踊りで、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら仏の教えによって衆生を済度するというストーリーで進められます。春秋の平泉藤原まつりや中尊寺の施餓鬼法会などの際に、精霊供養として踊られてきました。
 伝承によりますと、「川西念仏剣舞」は藤原清衡公治世の頃、前九年・後三年の役で命を落とした安倍氏・清原氏の亡霊が夜ごと現れ人心を乱したので、清衡公は兵を繰り出し退散させようとしましたが、なかなかかないませんでした。そこで、中尊寺にまつる山王権現に祈ったところ、1匹の猿(山王権現のお使い)が現れ、念仏踊りを舞いながら亡霊を浄土に導き、清衡公の念仏供養により成仏したことに始まると伝えられています。
 また、「朴ノ木沢念仏剣舞」は、平泉の高館で無念の最期を遂げた源義経主従を鎮魂するためにつくられたという「高館物怪(たかだちもっけ)」を受け継いでいるといわれ、お使いの猿が現れて、念仏の功徳によって武者の亡霊を鎮魂する様子が太鼓と念仏鉦の音とともに力強く踊られ、極楽浄土へと導かれていきました。

 前九年・後三年の役以前にも、またその後の戦乱でも、家族を故郷に残して命をかけて出兵し、無念の死を遂げた何万何千となる多くの兵士やその家族の恨み苦しみというものは、拭いきれないものがあると思います。そういった中で、清衡公もまた自らのご両親ご家族の命をこれらの戦いによって奪われました。清衡公の平和への願いが込められた鎮魂の剣舞(けんばい)は、敵味方の恩讐(おんしゅう)を越えて、区別なく極楽往生させる浄仏国土建設そのものを現したものであると思います。

 中尊寺眺望レストラン「かんざん亭」の広場で、美しくそして本当においしそうに色づいた柿の実がたわわにみのっていました。しかしながら、伺いますと実は渋柿だそうです。そういえば子供の頃、秋になるとおいしそうに色づいた庭の柿の実を、渋柿だとは知らずに口にして、顔がゆがむほど渋かったことを思い出しました。しかしその渋柿も、皮をむき、吊るし柿にしてしばらく冬の寒風に吹かれて太陽に照らされますと、柿が本来持っているタンニンの渋みがそのまま甘味に変わります。また、焼酎などで拭いたり浸したりとひと手間加えると、甘くおいしい甘柿となるのです。

 念仏剣舞で、亡霊が仏様のお使いの猿に導かれるように、また渋柿が太陽に照らされたり、ひと手間かけて渋柿がそのまま甘柿となるように、わたくしたちも日々の生活の中で色々な困難はあるわけですが、仏様の教え、家族友人多くの方々からのアドバイスによって、どんな苦労も苦労でなくなるように、工夫しながら受け止めて、皆で力を合わせ一歩づつ進んでまいりたいと思います。

志を立て一隅を照らす
2021年9月

志を立て一隅を照らす

 夏の終わりを告げる平泉束稲山(たばしねやま)「大文字送り火」のお盆の行事が終わると、いつの間にか秋の気配が感じられ、10月の菊まつり、そして11月には奥州藤原氏の追善法要とともに、能楽や各地の郷土芸能が「秋の藤原まつり」として境内で行われます。しかし昨年来、新型コロナウィルス感染症の蔓延により、本年も実施規模の縮小や一部中止とせざるを得ないことになりました。
 賛否のある中でしたが、今年開催された2020東京オリンピック・パラリンピックは、ほとんどの競技が無観客で実施されました。コロナ禍の厳しい社会情勢でありましたが、世界中の多くの人々がテレビ観戦で各国のトップアスリートたちを応援し、そのひたすらに競技に打ち込む姿から感動を受けた方もいらしたのではないでしょうか。
 また、アメリカ大リーグでは、地元岩手県奥州市出身のエンジェルス大谷選手が二刀流で大活躍し、さらにその紳士的な言動に賞賛の声が多く寄せられているとの報道には、日本人として誇らしく感じた方も多かったと思います。

 「少年よ、大志を抱け。(Boys, be ambitious.)」という有名な言葉があります。明治9年、ウィリアム・スミス・クラーク博士は将来の北海道開拓の指導者を養成するため「札幌農学校(現北海道大学)」の初代教頭として招かれました。学生たちには自然科学一般を英語で教えましたが、わずか9カ月余の就任で母国アメリカに帰国されたそうです。クラーク博士は、札幌農学校1期生の教え子たちとのわかれに際して、馬上からこの言葉を残しました。当時、日本という国が明治維新を迎えて、これから世界の国々と共に発展していくために、国を背負っていく若者たちに送ったエールでありました。

 「大志」志(こころざし)とはどういうものでしょうか。若い方々にとっては将来の夢であり、またある程度の年齢の方にとっては、今までの人生を振り返りながらのこれからの人生の過ごし方であったり、日々の生活の心構えであると思います。これから歩んでいく人生の目標であり、生きていくその時々のモチベーションになるものでもあります。それはちょうど、ローソクであればその火を灯すことが志を持つことになると思います。ローソクは火を灯して初めて光を放ちますが、私達人間も志を立てて歩むことで先ず自分自身の人生を輝かせ照らすことが出来るのではないかと思います。せっかく才能があっても、志を立てて進まないとその才能は眠ったままになってしまいます。自分の中にどのような才能があるのかはなかなか分かりにくいことだと思いますが、具体的に行動することで少しでも自分の才能を開発していきたいものです。

 世界各国からのオリンピック・パラリンピックのアスリート達、アメリカ大リーグエンジェルスの大谷選手は、それぞれの志を持って各自の才能に向けて努力してその光を放ちました。そしてその光は、自分自身が輝くだけでなく、多くの人々の心を照らし、その輝きが世界の人々に勇気と感動を与えたのだと思います。

 クラーク博士の残された言葉には、まだその続きがあるとの説があります。それは、「少年よ、大志を抱け。しかし金銭を求める志であってはならない。利己心を求める志であってはならない。名声という浮ついたものを求める志であってはならない。人間としてあるべき全ての物を求める大志を抱きたまえ。」ということだそうです。
 つまりこの「志を立てる」とは、自分だけのための自己中心のものではない、お互いを尊重し合いながら、自分だけではなく全ての人が幸福を感じることが出来るための「大志」であり、宗祖伝教大師のお言葉の、「一人ひとりが一隅に輝くことによって千里の世界を照らすこと」になるのだと思います。

 まだしばらくの間は、コロナウィルス蔓延により制約のある生活を送らざるを得ませんが、それでも皆様お一人お一人がそれぞれの「大志」を心にお持ち頂きながら、クラーク博士の激励の言葉「ボーイズ・ビー・アンビシャス!」を胸に、一隅を照らしながら力を合わせてこの難局を乗り越えて参りたいと思います。

梵音は寂なり(ぼんのんはじゃくなり)
2021年6月

梵音寂

 中尊寺境内の峯薬師堂前、弁天堂の周りに池があります。新緑の5月から夏の8月にかけて「カカカカカカカッ、コココココココッ」と、雨が降りそうになると池のあちらこちらから乾いた音色でリズミカルに何かの鳴き声が響き渡っています。初めて耳にしたときには、蛙の鳴き声とは思えませんでした。伺うと、国の天然記念物モリアオガエルの鳴き声で、中尊寺梅雨時から夏の風物詩とのことです。
 境内の池の中でも峯薬師堂の池になぜかたくさん生息しているそうで、アマガエルよりも一回り大きく、目の周りが金色に縁取られているとのこと。鳴き声は、うまく文字にするのが難しいのですが、アマガエルなどの「ケロケロケロ」とは全く違いました。
 しばらく耳を澄まして聞き入っていると、突然鳴きやみ境内は静寂に包まれ、申し合わせたかのように一匹として鳴き声は聞こえてこなくなりますが、また突然一斉に大合唱が始まります。しばらく聞いているといつの間にか心が落ち着いていつまで聞いていても飽きることはありません。

 他の寺院の法要に出席しますと、僧侶の皆さんがお経を唱えるのを聞くことになります。普段は自分でお唱えすることが多いわけですが、おもしろいもので、他の僧侶の方々がお唱えになるお経を聞くことはなんとなく心地よく、聞くことも良いものだなあと思います。特に、境内などで、遠くのお堂の中から鐘の音と共に響いてくる読経の声を聞くのは心が落ち着いて、その静寂を一層感じさせてくれます。

 お経に節をつけたものを「聲明(しょうみょう)」といいますが、天台宗の法要でよく使われる聲明が書かれている本に「魚山聲明全集」という一冊があります。その見開きのページに、筆文字で「梵音寂(ぼんのんじゃく)」と揮毫されています。揮毫されたのは、第250世天台座主中山玄秀猊下です。
 「梵音」とは「仏様の声、僧侶が唱える読経や聲明で奏でる音」、「寂」とは「静かで奥深い趣」となりますので、「梵音寂」とは「僧侶の唱える聲明がただ聴こえそこには静寂の世界が広がっている様子」という意味になるかと思います。
 そして、その魚山聲明集の序文には、「松風鳥聲(しょうふうちょうせい)は天地の唄音なり・・・」と述べられています。つまり、「梵音」とは、僧侶の唱える聲明のみならず、松の枝をすり抜ける風の音、鶯やカッコウの鳴き声、ゴーンと響く鐘の音、川の流れる音、参拝する方々のささやく声、そしてモリアオガエルの声など、森羅万象のあらゆるものが奏でる音、つまり生きとし生けるものの命の声すべてが「梵音」で、それらすべての物がバランス良く形作る世界そのものが「寂」であるということになるのではないでしょうか。

 仏教はインドの深い森の中で生まれました。その中で森の多様性に仏教は学び育てられ、長い時間をかけてインド、中国の神々を取り入れました。日本仏教となっては、山川草木すべてに仏性を認めて神仏混淆を進めました。
 日本人の宗教に対する形は、どちらかというと熱烈な熱いものではなく、四季折々の豊かな自然の中で形作られたもので、この世の中の様々なものを包み込みながら祈る「安らかな信心」ではないかと思います。
 是非、四季折々関山の森中尊寺境内で、また大好きな場所で、あなたの梵音寂の世界を捜して味わってみてください。そうすると、今まで見落としていたものに新たな美しさを感じることができ、やがてそのより深いところを見ることが出来るのだと思います。「梵音寂」の世界を感じるということは、その深まりの中に価値を見いだしていくことであり、そしてその豊かな自然の中の「ほとけ」そのものを観じることなのだと思います。