関山 中尊寺[岩手県平泉 天台宗東北大本山]

境内のご案内

月見坂<br>
		 県道30号線より中尊寺坂下へと足をすすめると、月見坂と呼ばれる坂の入り口へとたどり着きます。中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵に位置しているため、この坂が古くから本堂・金色堂へと参拝する人々の表参道として利用されてきました。<br>
		 参道をのぼり始めると、両脇には江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数えようかという幾本もの老杉が木陰を作り参拝客を迎えます。老杉と山の空気が作り出す荘厳な雰囲気に浸りながら足をすすめると、右手には奥州藤原氏に縁の深い束稲山・北上川・衣川を眺望することができます。<br>
		 古の俳人芭蕉翁をはじめ多くの旅人がここで足を止め眼下に広がるその光景を眺め、在りし日の平泉の栄華に想いを馳せたに違いありません。 東物見台<br>
		 かなり急な坂を上りきると道は平らになり、右手に眺望が開けます。<br>
		 遠くにゆるくカーブを描いて流れる大河が北上川、左手から衣川が流れ、北上川に合流しています。平安初期まで、この衣川以北は、中央政府の支配が及ばない「外地」であり、この川が内なる境界となっていました。いにしえの都人の歌にも多く詠まれ歌枕にもなっている、名に知られた衣川です。水田となっている一帯は、前九年の合戦の舞台となった衣川古戦場、また弁慶立往生の地と伝えられています。<br>
		 北上川の向こうに望めるのが束稲山。「きゝもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかゝるべしとは」と、平安時代の歌人、西行法師が平泉を訪れた際に詠んだところです。奥州藤原氏が栄えた当時、この束稲山に1万本の桜が植えられていました。 弁慶堂<br>
		 表参道沿いには諸堂が点在しますが、ほとんどが江戸時代中期以降に再建・移築されたものです。境内の木々と共に四季折々にいろいろな表情を見せてくれます。<br>
		 弁慶堂は文政10年(1827)の建立で、ご本尊は勝軍地蔵。古くは愛宕堂と称していましたが、義経・弁慶の木像を安置し、明治以降は弁慶堂と呼ばれるようになりました。堂内の格天井には60種余りの草花が描かれています。 地蔵堂<br>
		 1877年の再建で、本尊は地蔵菩薩(じぞうぼさつ)。また隣に建つ祠(ほこら)には道祖神(どうそじん)が祀(まつ)られています。 薬師堂<br>
		 1885年の改築で、本尊の薬師如来(やくしにょらい)、日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)と十二神将(じゅうにしんしょう)を安置し、和歌山県の熊野より飛来したと伝えられる熊野権現(くまのごんげん)の御神体を並び祀(まつ)っています。正月4日には中尊寺一山(ちゅうそんじいっさん)の僧侶(そうりょ)によって修正会(しゅしょうえ)が行われます。 本堂<br>
		 中尊寺というのはこの山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院です。本堂は一山の中心となる建物で、明治42年(1909)に再建されました。古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められます。<br>
		 本尊は丈六の釈迦如来。像高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像です。中尊寺の大壇主藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい平成25年(2013)に造顕・開眼供養されました。<br>
		 中尊寺は天台宗の天本山であり、本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されています。中尊寺の寺格は別格大寺、天台宗東北大本山です。 本坊表門<br>
		 本堂の正面に建つ表門は、薬医門とよばれる形式の門です。<br>
		 伊達兵部宗勝の屋敷門を移築したものと伝えられていますが、移築のいきさつは定かではありません。<br>
		(岩手県指定文化財) 峯薬師堂<br>
		 境内の別峯に建っていましたが、度重なる野火にあい、1689年に現在地に移されました。讃衡蔵(さんこうぞう)に安置されている丈六(じょうろく)の薬師如来(やくしにょらい)はもとはこの堂の本尊でした。堂の向かって右傍に建つ石造の宝塔(ほうとう)は12世紀のもので、重要文化財に指定されています。 不動堂<br>
		 本堂近くの不動堂は昭和52年建立の祈祷堂です。御本尊の不動明王は1684年、仙台藩主伊達綱村公により天下泰平を祈願し新調されました。不動明王様は、邪を破り、我々の過ちを正してくれる仏様で、少々厳しいお顔をされています。皆様の願い事に応じて家内安全・病気平癒・受験合格・交通安全などの御祈祷をしている不動堂、今日では多くの信者さんを集め一年を通して御祈祷が絶えません。 大日堂<br>
		 1802年の再建で、本尊は金剛界大日如来(こんごうかいだいにちにょらい)。前庭に建つ石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は1823年に造立されました。 旧鐘楼<br>
		 康永二年(1343)、金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。撞座は長い歳月にわたる打鐘により窪み、今この鐘が撞かれることはめったにないことである。銘文には建武四年(1337)、山内の堂塔が火災により焼失した旨を刻し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える貴重な資料でもある。径86㎝。 阿弥陀堂<br>
		 1715年に再建され、本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。蔵王権現(ざおうごんげん)を合祀(ごうし)し、大黒天も安置されています。また1845年に奉納された和算(わさん)の算額(さんがく)が堂内に掲げられています。 讃衡蔵<br>
		 讃衡蔵は奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館で、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められております。平安時代奥州藤原氏によって造営された、往時の大伽藍中尊寺の様子を今に伝えます。 金色堂<br>
		 中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物で、天治元年(1124)に上棟されました。堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂です(屋根部分は解体修理の際に金箔の痕跡が発見できなかったために箔補てんは見送られました)。<br>
		 まず堂内の装飾に目を奪われます。4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで、白く光る夜光貝の螺鈿細工、透かし彫り金具・漆蒔絵と、平安時代後期の工芸技術を結集して荘厳されており、堂全体があたかも一つの美術工芸品の感がします。<br>
		 須弥壇の上にご本尊阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び、最前列には持国天と増長天が破邪の形相でこの仏界を守護しています。この仏像構成は金色堂独特のもので他に例を見ない貴重なものです。<br>
		 孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されています。血筋の明らかな、親子四代の御遺体の存在は世界にもほかに例がありません。<br>
		 国宝建造物第1号の金色堂は、中尊寺を、また奥州藤原文化を象徴するものです。(国宝) 経蔵<br>
		 「中尊寺建立供養願文」によると、当初は「2階瓦葺」でした。建武4年(1337)の火災で上層部を焼失したと伝えられていますが、おそらくは古材をもって再建されたものでしょう。当初のあざやかな彩りや飾りは長い歳月によってすっかり洗い流されていて、金色堂とは対照的な趣があります。<br>
		 ご本尊騎師文殊菩薩(重文)と三方の経棚に納められていた紺紙金字一切経(国宝)は宝物館「讃衡蔵」に移され、新たな騎師文殊菩薩が安置されています。(重文) 旧覆堂<br>
		 金色堂を風雪から護るために、正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられたと伝えられる5間4方の堂で、古い記録には「鞘堂」とも記されています。「鞘」の字には「大切なものを保護するためにかぶせたり、覆ったりするもの」という意味があるからです。<br>
		 松尾芭蕉をはじめとする文人墨客、あるいは伊達政宗、明治天皇といった歴史上の人物は、薄暗いこの堂内に入り金色堂を参拝したわけです。<br>
		 金色堂解体修理(昭和の大修理)の際、現在地に移築されました。<br>
		 近年の調査では、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て、現在の建物は室町時代に建てられたと考えられています。(重文) 大長寿院<br>
		 『吾妻鏡』によれば、二階大堂(大長寿院と号す)の高さは五丈(約15m)、本尊は三丈(約9m)の金色の阿弥陀像、脇には丈六(約4.8m)の阿弥陀像九躰が安置されていたといわれます。1189年(文治5年)、奥州征伐の折に二階大堂を見た源頼朝は、鎌倉に、これを模した永福寺を建て、奥州藤原氏と源義経の霊を弔いました。現在の本堂は、1863年(文久3年)の再建。本尊は胎蔵界大日如来。 釈迦堂<br>
		 1719年の再建で本尊は釈迦三尊(しゃかさんぞん)様です。正月6日には、中尊寺の多くの僧侶達によって正月の法要が営まれています。 弁財天堂<br>
		 本尊の弁財天十五童子(べんざいてんじゅうごどうじ)は仙台藩主伊達綱村公(だてつなむらこう)の正室仙姫(せんひめ)によって1705年に寄進されたもので、堂は1716年に建立されました。また堂内には千手観音菩薩二十八部衆(せんじゅかんのんにじゅうはちぶしゅう)も安置されています。 能楽堂<br>
		 古来、卯月初午の日に催行された中尊寺鎮守・白山神社の祭礼では、中尊寺一山の僧侶によって「古実舞(古実式三番)」と「御神事能」が神前に奉納されてきました。現在も毎年5月4日・5日に古実式三番と神事能が中尊寺一山の僧侶によって勤められます。<br> この能舞台は嘉永六年(1853)、伊達藩によって再建されたもので、正統かつ本格的な規模と形式の能舞台として、平成15年(2003)に国の重要文化財に指定されました。 白山神社<br>
		 中尊寺の北方を鎮守(ちんじゅ)するため、850年に中尊寺を開いた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)がこの地に勧請(かんじょう)したと伝えられています。 かんざん亭<br>
		 かんざん亭1階では、平泉でとれた自然薯や季節物の山菜を使ったそば、うどん、そして甘味やコーヒーなどご用意してみなさまをお待ちしております。なお、天気が良ければ秋田県境の焼石岳も展望できます。教育旅行や研修の場としても使用しており、事前のお申し込みにより、中尊寺の僧侶が、その歴史のお話をし、生徒・児童の皆様の質問にお答えいたします。

地図上の施設名をクリックすると、詳しい説明をご覧いただけます。

月見坂

 県道30号線より中尊寺坂下へと足をすすめると、月見坂と呼ばれる坂の入り口へとたどり着きます。中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵に位置しているため、この坂が古くから本堂・金色堂へと参拝する人々の表参道として利用されてきました。
 参道をのぼり始めると、両脇には江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数えようかという幾本もの老杉が木陰を作り参拝客を迎えます。老杉と山の空気が作り出す荘厳な雰囲気に浸りながら足をすすめると、右手には奥州藤原氏に縁の深い束稲山・北上川・衣川を眺望することができます。
 古の俳人芭蕉翁をはじめ多くの旅人がここで足を止め眼下に広がるその光景を眺め、在りし日の平泉の栄華に想いを馳せたに違いありません。

東物見台

 かなり急な坂を上りきると道は平らになり、右手に眺望が開けます。
 遠くにゆるくカーブを描いて流れる大河が北上川、左手から衣川が流れ、北上川に合流しています。平安初期まで、この衣川以北は、中央政府の支配が及ばない「外地」であり、この川が内なる境界となっていました。いにしえの都人の歌にも多く詠まれ歌枕にもなっている、名に知られた衣川です。水田となっている一帯は、前九年の合戦の舞台となった衣川古戦場、また弁慶立往生の地と伝えられています。
 北上川の向こうに望めるのが束稲山。「きゝもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかゝるべしとは」と、平安時代の歌人、西行法師が平泉を訪れた際に詠んだところです。奥州藤原氏が栄えた当時、この束稲山に1万本の桜が植えられていました。

弁慶堂

 表参道沿いには諸堂が点在しますが、ほとんどが江戸時代中期以降に再建・移築されたものです。境内の木々と共に四季折々にいろいろな表情を見せてくれます。
 弁慶堂は文政10年(1827)の建立で、ご本尊は勝軍地蔵。古くは愛宕堂と称していましたが、義経・弁慶の木像を安置し、明治以降は弁慶堂と呼ばれるようになりました。堂内の格天井には60種余りの草花が描かれています。

地蔵堂

 1877年の再建で、本尊は地蔵菩薩(じぞうぼさつ)。また隣に建つ祠(ほこら)には道祖神(どうそじん)が祀(まつ)られています。

薬師堂

 1885年の改築で、本尊の薬師如来(やくしにょらい)、日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)と十二神将(じゅうにしんしょう)を安置し、和歌山県の熊野より飛来したと伝えられる熊野権現(くまのごんげん)の御神体を並び祀(まつ)っています。正月4日には中尊寺一山(ちゅうそんじいっさん)の僧侶(そうりょ)によって修正会(しゅしょうえ)が行われます。

本堂

 中尊寺というのはこの山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院です。本堂は一山の中心となる建物で、明治42年(1909)に再建されました。古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められます。
 本尊は丈六の釈迦如来。像高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像です。中尊寺の大壇主藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい平成25年(2013)に造顕・開眼供養されました。
 中尊寺は天台宗の天本山であり、本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されています。中尊寺の寺格は別格大寺、天台宗東北大本山です。

本坊表門

 本堂の正面に建つ表門は、薬医門とよばれる形式の門です。
 伊達兵部宗勝の屋敷門を移築したものと伝えられていますが、移築のいきさつは定かではありません。
(岩手県指定文化財)

峯薬師堂

 境内の別峯に建っていましたが、度重なる野火にあい、1689年に現在地に移されました。讃衡蔵(さんこうぞう)に安置されている丈六(じょうろく)の薬師如来(やくしにょらい)はもとはこの堂の本尊でした。堂の向かって右傍に建つ石造の宝塔(ほうとう)は12世紀のもので、重要文化財に指定されています。

不動堂

 本堂近くの不動堂は昭和52年建立の祈祷堂です。御本尊の不動明王は1684年、仙台藩主伊達綱村公により天下泰平を祈願し新調されました。不動明王様は、邪を破り、我々の過ちを正してくれる仏様で、少々厳しいお顔をされています。皆様の願い事に応じて家内安全・病気平癒・受験合格・交通安全などの御祈祷をしている不動堂、今日では多くの信者さんを集め一年を通して御祈祷が絶えません。

大日堂

 1802年の再建で、本尊は金剛界大日如来(こんごうかいだいにちにょらい)。前庭に建つ石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は1823年に造立されました。

旧鐘楼

 康永二年(1343)、金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。撞座は長い歳月にわたる打鐘により窪み、今この鐘が撞かれることはめったにないことである。銘文には建武四年(1337)、山内の堂塔が火災により焼失した旨を刻し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える貴重な資料でもある。径86㎝。

阿弥陀堂

 1715年に再建され、本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。蔵王権現(ざおうごんげん)を合祀(ごうし)し、大黒天も安置されています。また1845年に奉納された和算(わさん)の算額(さんがく)が堂内に掲げられています。

讃衡蔵

 讃衡蔵は奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館で、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められております。平安時代奥州藤原氏によって造営された、往時の大伽藍中尊寺の様子を今に伝えます。

金色堂

 中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物で、天治元年(1124)に上棟されました。堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂です(屋根部分は解体修理の際に金箔の痕跡が発見できなかったために箔補てんは見送られました)。
 まず堂内の装飾に目を奪われます。4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで、白く光る夜光貝の螺鈿細工、透かし彫り金具・漆蒔絵と、平安時代後期の工芸技術を結集して荘厳されており、堂全体があたかも一つの美術工芸品の感がします。
 須弥壇の上にご本尊阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び、最前列には持国天と増長天が破邪の形相でこの仏界を守護しています。この仏像構成は金色堂独特のもので他に例を見ない貴重なものです。
 孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されています。血筋の明らかな、親子四代の御遺体の存在は世界にもほかに例がありません。
 国宝建造物第1号の金色堂は、中尊寺を、また奥州藤原文化を象徴するものです。(国宝)

経蔵

 「中尊寺建立供養願文」によると、当初は「2階瓦葺」でした。建武4年(1337)の火災で上層部を焼失したと伝えられていますが、おそらくは古材をもって再建されたものでしょう。当初のあざやかな彩りや飾りは長い歳月によってすっかり洗い流されていて、金色堂とは対照的な趣があります。
 ご本尊騎師文殊菩薩(重文)と三方の経棚に納められていた紺紙金字一切経(国宝)は宝物館「讃衡蔵」に移され、新たな騎師文殊菩薩が安置されています。(重文)

旧覆堂

 金色堂を風雪から護るために、正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられたと伝えられる5間4方の堂で、古い記録には「鞘堂」とも記されています。「鞘」の字には「大切なものを保護するためにかぶせたり、覆ったりするもの」という意味があるからです。
 松尾芭蕉をはじめとする文人墨客、あるいは伊達政宗、明治天皇といった歴史上の人物は、薄暗いこの堂内に入り金色堂を参拝したわけです。
 金色堂解体修理(昭和の大修理)の際、現在地に移築されました。
 近年の調査では、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て、現在の建物は室町時代に建てられたと考えられています。(重文)

大長寿院

 『吾妻鏡』によれば、二階大堂(大長寿院と号す)の高さは五丈(約15m)、本尊は三丈(約9m)の金色の阿弥陀像、脇には丈六(約4.8m)の阿弥陀像九躰が安置されていたといわれます。1189年(文治5年)、奥州征伐の折に二階大堂を見た源頼朝は、鎌倉に、これを模した永福寺を建て、奥州藤原氏と源義経の霊を弔いました。現在の本堂は、1863年(文久3年)の再建。本尊は胎蔵界大日如来。

釈迦堂

 1719年の再建で本尊は釈迦三尊(しゃかさんぞん)様です。正月6日には、中尊寺の多くの僧侶達によって正月の法要が営まれています。

弁財天堂

 本尊の弁財天十五童子(べんざいてんじゅうごどうじ)は仙台藩主伊達綱村公(だてつなむらこう)の正室仙姫(せんひめ)によって1705年に寄進されたもので、堂は1716年に建立されました。また堂内には千手観音菩薩二十八部衆(せんじゅかんのんにじゅうはちぶしゅう)も安置されています。

能楽殿

 古来、卯月初午の日に催行された中尊寺鎮守・白山神社の祭礼では、中尊寺一山の僧侶によって「古実舞(古実式三番)」と「御神事能」が神前に奉納されてきました。現在も毎年5月4日・5日に古実式三番と神事能が中尊寺一山の僧侶によって勤められます。
 この能舞台は嘉永六年(1853)、伊達藩によって再建されたもので、正統かつ本格的な規模と形式の能舞台として、平成15年(2003)に国の重要文化財に指定されました。

白山神社

 中尊寺の北方を鎮守(ちんじゅ)するため、850年に中尊寺を開いた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)がこの地に勧請(かんじょう)したと伝えられています。

かんざん亭

 かんざん亭1階では、平泉でとれた自然薯や季節物の山菜を使ったそば、うどん、そして甘味やコーヒーなどご用意してみなさまをお待ちしております。なお、天気が良ければ秋田県境の焼石岳も展望できます。教育旅行や研修の場としても使用しており、事前のお申し込みにより、中尊寺の僧侶が、その歴史のお話をし、生徒・児童の皆様の質問にお答えいたします。